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2007年9月の記事

2007.09.30

ブログ活用の知的生産術

Cocologこのブログにほぼ毎日記事を掲載するようになって、約1ヶ月がたつ。「知の収集と生産の意欲とアウトプットの増進」を第一目的に始めてみたのだが、自分的には期待以上の効果をあげている。

自分の考えを文章にまとめることで得られるメリットや、ホームページを使って発信することが自分に意欲や緊張感を与えてくれることのメリットは今更あらためて論及するまでもない。ところが、それとは別に、ブログというツールによる情報発信ならではの特別のメリットがあることに気がついた。それは、 緩やかな強制力と、緩やかな逃げ道だ。

緩やかな強制力というのは、定期的に記事を掲載することは義務ではないとはいえ、なんとなく毎日のように記事を書く気にさせる魔力?があるということだ。それはブログに記事が並ぶことの達成感であったり、知らない人からコメントだったり、ブログへのアクセス数だったりに起因するものだ。さらに、毎日更新などと自分で退路を断てば、宣言してしまった手前どうしても書く。知的生産というのは量が質になる部分も多々あるので、継続性を与えてくれることはとても有り難い。

緩やかな逃げ道というのは、隙が全くない完璧な内容でなくても良い、という安心感である。もちろん、長年研究されてきたことを、ブログを使って表現しているプロフェッショナルな方もおり、この辺のルール設定は自分次第なのだが、一般にブログというのは、もう少し自由に気楽に使われている表現手段なので、私もあえて読み手にリマインドしなくても、読み手にもその辺のコンセンサスがある、ということだ。

この二つの特徴が私が今求めているものに合っていて、目的であった「知の収集と生産の意欲とアウトプットの増進」に、大きく寄与していると思う。

唯一ともいえるディメリット。時間はけっこう食うんだよなあ。

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2007.09.28

二種類のタイの歴史

Gpb一般にタイ人は、タイの歴史をこう語る

「タイ人の祖先はもともと中国南部やベトナム北部にいた民族で、だんだんと南に下りてきて、13世紀にクメール君主を倒してスコータイ王朝ができ、14世紀にアユタヤ王朝ができ、繁栄したが、18世紀にビルマに攻め込まれ、アユタヤが陥落、混乱の後タクシン将軍がトンブリー王朝を築き、これがチャクリー王朝に継承され、現在に至る。」

面白いと思うのは、 ここにはタイ人が入ってくる前のタイの先住民の話がないことだ。この土地には2世紀にはインド文化が入ってきていたというし、現在のタイの東北部はクメール王朝(9世紀~)の支配下にあった時代もあった。また、タイ深南部は言うに及ばず、タイ南部のナコンシータマラートなども14世紀までは完全にシュリーヴィジャヤ文化圏(インドネシアベースの海洋貿易国家)だったのだが、それらには触れられない。つまり、タイの歴史を語るのに、現在のタイの国土の歴史を語らずに、タイ民族の歴史を語るのだ。

一般に日本人が日本の歴史を語るときは、日本の国土(日本列島)を念頭において、日本民族の歴史を語る。日本の場合はほぼ国土と民族が一致するので、国土の歴史を語れば民族の歴史になるし、民族の歴史を語れば国土の歴史になる。

だがタイの場合は領土も増えたり削られたりの繰り返しなので、国土の歴史を語るとするならば、タイの土地に存在してきたインド、カンボジア、ミャンマー、インドネシア文化についても語らねばなるまい。国土から見た時のタイの歴史は、民族から見たときのタイの歴史と大きく異なるのだ。

この事実に気がついたとき、なんだか目からウロコが落ちる思いだった。世界には、日本のような国の方が少ないのだろう。

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2007.09.27

今日の夕焼け写真

Y1_2

↑本日のパトンビーチの夕焼けです。実は撮影は我が家から。
シービューの最高の家なのだけど、予算など諸々の都合で9月末で引っ越すことにした。というわけで、見納め写真になります。

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↑パトンビーチはプーケット島の西側にあるので、太陽は海に落ちていく。

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↑完全に日が落ちたところ。この時間ぴったりに、近所のモスクから日没のお祈りが流れる。イスラム教徒は今ラマダン中なので、この合図でやっと食事タイム。

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↑こちらは同じ時間帯の東の空。かすかに赤みがかかっている。

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↑赤みがかった雲のレイヤーがなんだか野生的かつ幻想的。

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↑こんな風景としばらくお別れなのは寂しい。。。

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↑おまけ。毎日夕焼けを背に昼寝する近所の犬。涼しくなった頃にやってくる。誰が飼っているわけでもなく、皆好き勝手にレックレック(洗濯やのおばちゃん-タイ人)、ラッキー(下の階に住むオージー)、クロ(私)などと呼んでいる。

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2007.09.26

ソンクラーナカリン大学 プーケット校 ~タイ留学先としてどうなのよ?

Psu1 先週先々週に引き続き、今日はソンクラーナカリン大学の話です。最終回の今回のトピックは、留学先としてどうなのかという点。日本人が、タイ文化を勉強するための留学先として、あるいはタイ語留学先として、活用する場合につき考えてみる。



◆ タイ文化を勉強するための留学先として
プーケットキャンパスのサービス産業学部タイ学科が受け入れ先となる。ここではタイの歴史、伝統、宗教、芸術、地理、経済、スポーツ等々、幅広くタイのおよそ全てを学ぶことができる。授業は英語だ(補助的にタイ語もよく使う)。図書館の資料も充実。タイ文化を網羅的に勉強するにあたって、これほどの環境はプーケットではもちろんここだけだし、タイ全土を見てもたくさんはないと思う。

留意すべきは、学部の授業であること。大人を対象とした研究所ではない。学生向けの授業はまだるっこしく感じることも多く、時間の制約がある人、プロフェッショナルな講義を求める人には向かない。

なお、タイ研究を目的とした大学院はこの大学にはない。チュラロンコーン大学、マヒドン大学、チェンマイ大学などにはタイ研究や東南アジア研究の大学院コースがあるようだ。

◆ タイ語留学先として
例えばチュラロンコーン大学の一年間みっちりタイ語学習コースのような、タイ語の習得そのものを目標としたカリキュラムは、この大学にはない。タイ語指導は、あくまでも補助的な位置づけだ。一応、「外国語としてのタイ語」という講座が開講しており、週2回各2時間程度の授業を受けることができる。

Psu2一方で、タイ語の中・上級者にとっては、語学力を伸 ばすのにいい環境だろう。まず周囲はみんなタイ人なので、話し相手には事欠かない。授業も英語とタイ語の併用なので、英語もタイ語も鍛えることができる。さらにタイ学科では「タイ語の成り立ち」のような、タイ人向けに、タイ語そのものを言語学的に分析する授業もある。この授業を取れば、タイ語の綴りを見て、この単語がサンスクリットルーツなのかバーリなのかタイ独自単語なのか、といようなことも判別できるようになる。

◆ 留学生の現状
外国人留学生の数は、プーケットキャンパス全体で学部生が10名未満、院生が15名前後といったところ。日本と韓国のいくつかの大学と提携していて、毎年1-2名の留学生が来る。基本的に留学生の科目選びは自由で、とある韓国からの留学生は、タイ料理、ゴルフ、タイ語、英語といったのんきなカリキュラムを組んでいる。

中国研究や中国ビジネスという学科があるだけあって中国とのパイプは太く、中国からの留学生は多い。提携校との交流イベントもしょっちゅうやっている。

Phuket大学院に観光MBAコースがあり、ここにはブータン、カンボジア、ラオス、インド、アメリカ等々から学生が集まっている。ハワイからの学生は、プーケットでのサーフィン事業の可能性というのを論文のテーマに選んでいた。彼らとは留学生交流イベントなどで知り合える。

授業が英語で行われるので、一応英語力のハードルがあり、入学にはTOEFL(PBT)で550点が必要。一方でタイ語は要件とはされていない。 ペーパーの語学力ではなくて、英語かタイ語がどちらかで授業を聞いて発言もできる程度の語学力は必要。一学期間(4ヶ月強)からの入学が可能だが、一応大学の成績証明書などの提出が義務付けられている。学費は、単位不要として、半期で45,000バーツだった。これには多数の研修旅行の料金も含まれている。

学校側は、留学生を歓迎してくれている。外国人との交流はタイ人の学生にとっても有益だし、英語の訓練にもなるからだ。特にタイ学科長は、いずれはタイ学科の外国人比率を50%まであげたいという野望をもっている模様。

ところで、学部生は制服着用が必須だ。私も(恥ずかしながら)黒ズボンと白シャツで通学している。それから、大学の寮に住みたい人は、格安で住むことができる。男性寮が半期で12,000円くらい、女性寮でも半期で30,000円くらいだ。大学の寮はキャンパス内にあるので、治安面でも安全だし、交通の便の心配もない。

以上です。もし興味のある方がいれば、メールいただければ相談にのります。

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2007.09.25

コロンブスの航海と風~貿易風と偏西風

Canaryこの地球上には、おおざっぱに言って、いつでも同じ方向に風が吹いているエリアがある。もちろん、風というのは日々の気圧配置によって向きが変わるものなのだが、気圧配置を生み出すものは太陽光による熱であり、太陽光は赤道付近に最も当たるという法則があるので、地球の気圧配置にも大きな法則がある。よって、マクロで見れば、風向きには法則があるのだ。貿易風、偏西風といわれているのがそれだ

貿易風とは、北半球では概ね北緯30度から赤道にかけて吹く、緩やかな北東からの風のことだ。南半球では概ね南緯30度から赤道にかけて、南東からの風が吹く。偏西風とは、北半球では概ね北緯30度から60度くらいにかけて吹く、西から東への風のことだ。南半球でも同じく、西から東に吹く。

地表付近のこの二つの風を生み出す要因は、上Kaze層から下降気流が吹き込ん でくる緯度30度付近の亜熱帯高圧帯の存在だ。亜熱帯高圧帯から赤道側に吹き出した風が貿易風で、極側に吹き出した風が偏西風となる。風向きが違うのは、コリオリの力と呼ばれる地球の自転の慣性力によって、風が進行方向に向かって右向きに曲げられるからだ。つまり北半球では、北に向かう風は東向きに曲げられ、南に向かう風は西向きに曲げられる。

なお、季節によって思いっきり風の方向が違う、季節風(モンスーン)というのもある。アラビア半島からインド、東南アジアにかけての気候は季節風の影響を大いに受ける。これは夏と冬の太陽の位置の違いと大陸と海洋の熱的性質の違いが原因なのだが、今回の主題から外れるのでまた今度。

さて貿易風と偏西風だが、ここまで面倒くさい説明をしてきたのには訳がある。1492年にアメリカ新大陸を発見したクリストファー・コロンブスの航海では、この二つの風をうまく活用したからこそ成し遂げられたからだ。

Columbus_2 当時、地球が丸いということは、確かめた者はいなかったが、すでに常識となっていた。コロンブス以前にも何名かの航海者は西回りでインドに到達しようと大西洋を渡ることを試み、スペイン西に位置するアゾレス諸島までは達していた。だが北緯37度のこの島からさらに西に進もうとして、この緯度帯に卓越する偏西風に妨げられていた。コロンブスは、スペインを出発するとまず南下してカナリー諸島(北緯28度前後)に達した。ここまで来れば北東から南西への貿易風が吹く。これを利用して、速やかに太平洋を横断することに成功したわけである。イスパニョール島(現ドミニカ共和国とハイチ共和国)からの帰途はまず北上し、偏西風帯に入って、風にのって速やかに戻った。

言われてみれば、なるほど、風の存在さえ知っていれば誰でもできた航海かもしれない。だが最初に成し遂げるのは難しい。いわゆる「コロンブスの卵」だ。

[※参照]
『一般気象学』(第2版) 小倉義光著 東京大学出版会
http://ja.wikipedia.org/wiki/クリストファー・コロンブス
http://www.s-yamaga.jp/nanimono/taikitoumi/taikinodaijunkan.htm

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2007.09.24

大航海時代の航海(2)~太陽から方角を知る方法

Sunship 昨日、羅針盤を使った航海の限界について書いたが、今日は太陽から方角を知る方法について考えてみる。

北半球であれば、南中時(日中、太陽が一番高い位置に来る点)の太陽の方向が南の方角だ。これは当時でも常識だ。だから南中時の太陽を基準に、遠くに見える島や山などの方角を見定めて、それを頼りに航海を行ったであろうことは想像できる。

ただしこの方法には多くの難がある。まず、南中時にしか使えないことだ。たとえば昼の3時頃方角を知りたくなっても、太陽はもはや基準点にならないので使えない。次に、南中時であっても、山や島など目印になるものが近くにない場合、せっかくわかった方角を記録する方法がないので、船が揺れればそれまでであることだ。

Hl_wristwatchちょっと待てよ、とここで思い出すのは、ボーイスカウトなどでも教えている、太陽と腕時計を使って方角を出す方法(右図)。短針を太陽の方向に向けて、時計盤の12時と短針のちょうど真ん中を示したところが南(北半球の場合)だ、というあれだ。当時もこの方法で方角を知ることはできなかったのだろうか?

まず、なぜこの方法で南がわかるのかを明らかにしてみよう。ポイントは、南中=12時を基準としていることと、腕時計を時を計る道具としてのみならず分度器として利用していることだ。

南中から南中までが24時間なので、太陽は360度を24時間かけて、つまり地球からみると1時間に15度動く。N時間では15N度だ。他方、時計の短針は12時間で360度回転するので、1時間では30度動く。N時間では30N度だ。つまり南中時=腕時計の12時でよーいドンでスタートすると、時計の短針は、太陽が動くスピードの倍のスピードで動いていることになる。

Tokei仮に今17時だとしよう。太陽は5時間で75度西に動いた。だから今の太陽から75度分戻ったところが南中=真南だ。分度器があればそれを使って75度を測ればいいのだが、せっかくだから今17時であることを示してくれた腕時計を使ってみる。腕時計を分度器として使うのだ。文字盤の1時間は30度なので、その二個半分が75度だ。これが真南だ。

面白いことに、短針の指す場所と文字盤の12時でつくる角度の大きさは、いつだって太陽が12時=南中から動いた角度の倍になっている。時計の短針は、太陽の倍のスピードで動いているからだ。だからこの短針と12時でつくる角度を半分にしたものが、太陽が12時から現在までの間に実際に動いた角度で、その指し示すところが12時の太陽の位置、つまり真南だ。これが短針と12時の「真ん中」を取る理由だ。午前中も同じように考えればよい。

さて本題に戻って、ではこの方法で航海中に方角を知ることはできたのだろうか? 上記の説明から、この仕組みが成立するには2つの条件があることがわかる。

(1)   南中時に時計を12時に合わせること
(2)   時計が正確に時を刻むこと

多くの国では、いわゆる標準時を採用しており、基準点(日本なら兵庫県明石市)以外では12時に太陽が南中しない。これでは時計が12時に真南を指さない。当然、それをベースに算出した方角も間違っている。国の時報に時計を合わせるのではなくて、太陽に合わせなくてはいけない。この点、当時でも六分儀(水平面からの角度を図る分度器)を使って南中を知ることはできたので、この点は問題ない。

Henlein 次に、時計が正確に時を刻むことが必要だ。時計は15時を指しているが、実際には15時30分だったというようなら、この方法が機能しないのがいうまでもない。ところが当時の時計はゼンマイ式で、まだまだ分単位の精度がなかったため、分針もなかった。振り子時計は1657年に発明されているが、揺れに弱いので船上では役に立たない。分針もないようでは、毎日12時の南中にセットしなおしたとしても、方角を知るための手段としては限界があったと思われる。

結局、当時の航海は星空、羅針盤、太陽と時計など、方角を知る手段としてはどれも一長一短あるものを、それぞれ補完しながら併用していたのだろう。

[※参考]
http://kawai3.hp.infoseek.co.jp/history2.html
http://www.popxpop.com/archives/2007/08/post_341.html

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2007.09.23

大航海時代の航海~羅針盤と地磁気

羅針盤 先日から大航海時代の航海について書いているが、素朴な疑問がわく。当時の人たちは、どうやって航海に必要な方角を知ったのだろう。

まず、星空は利用したであろう。夜空見上げて北極星が見つかれば、それが北の方角だ。北がわかればその反対側が南で、90度ずれたところがそれぞれ東と西だとわかる。

だが昼間はどうだろう? 太陽は動くが、方法次第では多少は方角を知る役に立つ。この点はまた次回書くとして、まずはより一般的に使われたであろう、羅針盤、いわゆる方位磁針(コンパス)について考えてみたい。

方位磁針とは、磁石を自由に回転できるようにした道具だ。磁石が地球の地磁気に反応して、N 極が北(磁北)を、S極が南(磁南)を向く。方位磁針の発明者は中国人のようで、紙、火薬、活版印刷と並んで中国の四大発明の一つといわれている。ヨーロッパにはアラブのイスラム商人などを通じて伝わったようだ。

偏角図方位磁針を航海に用いるにあたっては、大きな問題が一つある。それは、方位磁針が指す北は、北極点ではないのだ。方位磁針はあくまでも地球の磁場の北(磁北という)を指す道具なのだが、磁北は2007年現在、北緯84.1度、西経123.7度の場所にある。このため、方位磁針が指す方向と北極点との間には誤差がある(偏角という)。この誤差は緯度が上がれば上がるほど大きくなり、赤道付近では0-10度未満だが(これでも航海するにあたってはとても大きな誤差だ)、例えばアメリカ西海岸では10-20度にもなる(図参照)。さらにこの磁北は固定点ではなく、毎年かなり変化している。

さらに厄介なことに、磁北以外にも方位磁針が反応する「偽磁極」とも言うべきものもあり、日本ではシベリアにある偽磁極に引っ張られて、方位磁針は北極点よりも6-10度西にずれた方向を示す。

要するに、羅針盤(方位磁針)単体では正確な方角を知る道具としては限界があり、航海にあたっては、場所ごとの偏角を記した地図も必要ということだ。だが、16世紀当時、それほど正確に偏角を測ることができたとも思えないので、陸の見えない地域での航海は博打のような要素もあったであろう

そして当時の船は帆船だから、距離を稼ぐために、風向き次第では陸から離れて大海原を航海する必要もあった。来る日も来る日も陸が見えず、乗組員たちの不安と不満は高まり、食料は徐々に少なくなり、しかも嵐になれば転覆の危険もある。そんな中、ヨーロッパからアフリカ、そしてインドや東南アジアまで来た船員達を、大いに尊敬する。

[※参考]
http://swdcwww.kugi.kyoto-u.ac.jp/poles/polesexp-j.html
http://www.aist.go.jp/GSJ/~okuma/amag/geomagcomps.html

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2007.09.21

アフリカを回るインド航路の開拓

Africa_2昨日フランシスコ・ザビエルの航海図を掲載した。彼の航海年は1541年で、約1年1ヶ月かけて、ポルトガルのリスボンからインドのゴアに到着している。

ところで、左図の通り、アフリカはとてつもなく大きい。北緯35度近辺から南緯35度近辺にまたがり、南北の長さは約8000キロもある。アフリカを回ってインドに至るインド航路の開拓は、大変なことだったろう。

もちろん、この航路を開拓したのはザビエルや彼の乗る船の船長ではなく、それまでに先駆者によって開拓されていた。ゴアやマラッカにもそれなりにポルトガルの拠点ができていたからこそ、宣教師を派遣してカトリックの布教をしよう、という話が出てくる。

Gama_route_1さて、ではこのアフリカを回ってインドに至る航路を開拓した 一番の功労者は誰かというと、教科書にも乗っている有名人、バスコ・ダ・ガマだ。右図は彼の第一回航海図。1497年7月8日にリスボンを出航し、1497年11月22日にアフリカ南端の喜望峰(ケープタウン)を通過し、モザンビークに到達する。ここで水先案内人を雇い入れて、1498年5月20日、インド南西のカリカットに到達した。出航から約10ヶ月かかっている。

が、ポルトガルからケープタウンそしてアフリカ南端のアガラス岬までの道のりは、バスコ・ダ・ガマ以前に開拓されていたのである。果てしなく南に伸びていると思われたアフリカ大陸の最南端を探り当て、その航海の道筋をつけた人も、バスコ・ダ・ガマと同じかそれ以上の功労者だろう。その人の名は、あまり有名ではないが、バルトロメウ・ディアスという。同じくポルトガル人だ。

Bartolomeuバルトロメウ・ディアスの航海図は左の通り。1487年の8月か9月にリスボンを出発し、1488年2月にモッセル湾を、1488年5月にケープタウンを発見し、1488年12月にリスボンに戻っている。往復で約16ヶ月の航海だ。

なお彼はバスコ・ダ・ガマの第一回航海にも部下として水先案内人を務め、アフリカ西端のヴェルデ岬まで同船している。さらに、彼はペドロ・アルヴァレス・カブラルが率いた第二回インド遠征隊にも同船し、ヴェルデ岬沖で嵐に合い漂流の結果、ブラジルを発見することになる。

大航海時代の話は、調べていても書いていてもとてもわくわくする。人間の知恵の限りを尽くして未知のものに挑戦する開拓者精神と、海を舞台としたスケールの大きな冒険物語に大いに共感するのだ。

[※参考]
http://en.wikipedia.org/wiki/Vasco_da_Gama
http://en.wikipedia.org/wiki/Bartolomeu_Dias
http://en.wikipedia.org/wiki/Pedro_%C3%81lvares_Cabral

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2007.09.20

フランシスコ・ザビエルの航海図

Xavier

フランシスコ・ザビエルの航海図。1541年4月7日にポルトガルのリスボンを出発し、同年8月にモザンビークに到着。同年3月まで同地に留まり、インドに向け出発、1542年の5月6日にインドのゴアに到着している。約1年と1ヶ月かかっている。

当時の船は帆船だから、風向きが悪いと目的地に着けない。偏西風や季節風をどのように利用して辿り着いたのか、とても興味あるところだ。おそらくモザンビークに長期滞在したのも、風を待っていたのだと思われる。今後の調査課題。

[※参考]
http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Xavier

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2007.09.19

ソンクラーナカリン大学 プーケット校 サービス産業学部 タイ学科(2)

Psu1 先週に引き続き、ソンクラーナカリン大学(英語名称:プリンス・オブ・ソンクラー・ユニバーシティ)の話。今回のトピックは講師と学生達です。

◆講師陣
まずサービス産業学部全体に言えることだが、講師陣がとても若い。タイ人講師は大半が20代、30代だ。

これは一つには観光系の学科が多いので、学問の蓄積よりも、実際に役に立つ技術や情報を教えられる人が必要だという事情による。いわゆる学者肌ではなくて、現場肌の人が多い。もう一つの原因は、おそらく予算だろう。ここで働くタイ人講師の給与は安く、月12,000バーツとも15,000バーツとも言われている。民間のホテルや旅行会社のマネジャー級ならその倍を稼ぐことも難しくはないから、どうしても子供にお金がかかるような年代の人は離職してしまう。

講師の男女比は40/60くらいだ。もっともタイは女性の社会進出が進んでいる国なので、これは驚くにはあたらない。

驚いたのは、同学部タイ学科には教授の肩書きがつく人が学科長の一名しかいないこと。その学科長も教授ではなくて、准教授(Associate Professor)だ。その他の10数名の講師は、みな一年契約の常勤講師である。スタートしてまだ3年の学科で、学科全体の生徒数が70名ほどしかいないので、ずいぶん予算上の制約があるようだ。自然、研究機関というよりは教育機関という側面の方が強い。

講師の質は玉石混合で、優秀な講師とそうでない講師との実力差が天と地ほどある。

これらのタイ人講師に、多国籍の外国人講師が加わり、講師軍団を構成している。外国人講師は語学だけでなく、自国の哲学や歴史をかけもちで教えていることが多い。

人数が3学年合わせて70名ほどしかいないので、自然、授業は全授業がゼミ形式になる。講師との距離が近いので勉強に身が入る反面、レポートや発表などが結構忙しい。

◆学生たち
プーケットはもちろん、ソンクラー、パタニ、パッタルン、ナラティワート、ヤラー、サトゥンなど、生徒たちはタイ南部各地から来ている。バンコク出身者は少数、北部や東北部の出身者は少なくてもタイ学科には皆無だ。

この学費の高い学科に子供を通わせることができるくらいだから、生徒は裕福な家庭の出身が多く、携帯電話やデジカメも最新機種を持っていたりして驚く。しかし中には日本でいう育英会奨学金のようなものを使って来ている学生もいる。

出身地が遠く離れているので、学生はほとんどが大学に併設されている寮住まいだ。中には学校の近くに部屋を借りている学生もいるが、バイクを持っているくせに徒歩圏内に部屋を借りる。バイクで10分もかけて通学する、という発想はあまりないようだ。結果、ほとんどすべての学生が大学近辺に四六時中いて、彼らは朝も昼も夜も友人と一緒だ。あまりプライバシーはないようだが、彼らはむしろ孤独を嫌う。

Psu2アルバイトはしていない。これは、バイトするくらいならその分勉強しなさい、という親心だ。大学の成績については、日本の大学生は単位さえとれればいいや、という学生も結構多いが、ここの大学生は成績を気にして比較的きちんと勉強する。授業のほとんどがゼミ形式のため、学生たちはレポートやプレゼンの期限に追われ、空きゴマも図書館にいることが多い。サークル活動はほとんどない。勉強が忙しくてそんな時間がないというのが現実だ。ただ、授業での共同作業や研修旅行が頻繁にあるので、これがサークル活動のような親睦の役割も果たしている。また授業もゴルフあり、西洋音楽あり(バイオリンが50本ある)と、バラエティ豊かだ。

いつも友達と一緒にいるせいか独り立ちしておらず、一人でプレゼンができない学生も多い。文章をまとめたり、自分の考えを発表したりするのは日本の学生の方が上手だ。タイの学生の方が優れていると思うのは、手先の器用さとエンターテイメント性。

日本の大学生に比べるとはるかに子供っぽいが、斜めに構えた奴は少ないし、病んでる奴もいないのが良い。

#次週に続きます。次週はタイへの留学先としてみたときの評価です。

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2007.09.18

厳密には一日の長さは毎日違う

Image_2 大学の図書館には、決して数は多くはないが、英語の本もある。私が特に気に入っているのが、アジアなんちゃら基金から寄贈された、アメリカの大学で使われた物理や地学の中古教科書。約20年前出版されたものだったりするのだけど、国が違えば同じ題材でも記述の仕方が違うので、発見が多くて面白い。一般論だが、アメリカの大学の教科書は日本の大学の教科書に比べ、説明が丁寧だと思う。

さて、そんな本の中で面白い記述を見つけた。自己流にまとめるとこんな感じ。

厳密にいうと、一日の長さは毎日違う。我々は毎日一日24時間で生活しているが、これは平均値だ。一日の長さとは、太陽が正面にきて(南中して)から1回転して次に正面に来るまでの長さだが、これは地球の自転(23時間56分)と公転角度分の自転にかかる時間の和だ。ところが地球の軌道は微妙に楕円であり、太陽に近い時期には公転速度が速くなるから(角運動量保存則)、公転角度もやや大きくなる。つまり、公転角度分の自転にかかる時間が長くなる。地球が太陽か遠い時期にはその逆で、公転角度は小さく、その分の自転にかかる時間が短い。一般社会では一日がこのように変化しては不便なので、平均値である24時間としているが、厳密に太陽の位置を基準として時計をつくると、平均値の時計とでは最大で約16分のずれが出てくる。

※画像はイメージです。こちらからいただきました。

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2007.09.17

頭とお尻、触られるとしたらどっちが嫌?

Photo「頭とお尻、触られるとしたらどっちが嫌?」 友人の唐突な質問に私は答えた。「そりゃお尻でしょ」。

「やっぱりね。欧米人もそういうけど、普通タイ人は頭の方が嫌って言うよ」

なんでも頭は神が宿る場所らしく、タイ人が体の中で一番大切にしている場所なのだ。そういえば成人男性の頭には絶対に触らないようにガイドブックなどには書いてあるし、ムエタイの試合でモンコン(冠のようなもの)を選手の頭に載せるときなど、どうしても触らなければならない場合は、ワイ(お祈りポーズ)をしてから頭に触る。

このようにタイ人が大切にする頭だが、ましてや国王様の頭ともなれば、この世で最も尊い場所の一つだ。タイの国王様の位置づけは、戦前日本の天皇陛下のものに近いものがある。

Photo_2そんなこの世で最も尊い場所を、我が者顔で汚す奴がいる。コイツらだ。場所はパンガー県のスワンクハ寺。銅像はラーマ五世、すなわちチュラロンコーン大王という、タイを近代化に導いた偉大なる王様のもの。現国王であるブミポン国王のおじい様にあたり、ちょうど日本での明治天皇の時期や役割と重なる。非常に尊敬を集めている大王様なのだ。

これを見たタイ人達は、困惑しながらも、追い払うわけでもなく大笑いしていた。この辺はタイ人的なバランス感覚なのかもしれない。

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2007.09.16

バンコク大鳥居の正体

Saochingcha2まずは左のバンコクのお寺の写真を見て欲しい。左端に真っ赤な巨大な鳥居のようなものがあるだろう。高さは20メートルを超える。上部に鶏のとさかのようなものがついているが、それをはずせば日本の神社の鳥居とそっくりだ。これと同じものは、タイ南部のナコンシータマラートにもあった(二枚目の写真)。

日本の鳥居とあまりにもよく似ているから、なにか関係があるんじゃないか?という疑問から、調べてみた。

この赤い鳥居はサオチンチャーという。直訳すると「ブランコ柱」の意味だ。

Wikipedia英語版によると、これはスコータイ王国にて毎月行われていた12の王室儀式の一である、「トリ・ヤムパワイ」という宗教儀式に由来するものである。トリ・ヤムパワイはバラモン教に由来する儀式で、バラモン教の次のような物語の再演である。すなわち、

「ブラフマーがこの世を創造し、管理者としてシヴァを送った。シヴァが地球に下りるときナーガ蛇が山々に巻きついて地球を固定しシヴァを助けた。シヴァが地球が安定した物体であることを確認すると、ナーガ達は海に移っていった。」

Swingnakhonサオチンチャーの二本の柱が山を象徴し、地面の円形の土台が地球と海を表すのだそうだ。

この儀式においては、4人の司祭がサオチンチャーにぶら下げたブランコに乗り、前後に大きく揺すってサオチンチャーのてっぺんにおかれたコインの袋を掴もうとするのだそうだ。これが何を意味するのかはよくわからないが、あまりに危険で過去に多くの死者が出たため、1935年以来中止されている。

ところで、日本の神社の鳥居の由来については諸説あるが、機能としてみたとき、日本の鳥居は神の聖域と俗世界を分ける境界として機能している。他方でサオチンチャーにはそのような意味はないので、形は似てるが両者には直接の関係はないであろう、というのが今日の結論です。

[※参考]
http://en.wikipedia.org/wiki/Giant_Swing

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2007.09.15

世界大学ランキング ~ タイ・マレーシアの場合

Yasuda_2 世界大学ランキングという書籍・レポートが出版されている。有名なところではアメリカの「ゴーマン・レポート」(The Gourman Report)、最近では上海交通大学版、ロンドンタイムス高等教育版などもある。それぞれウェイトの置き方に特色があり、かなり順位も変わってくるのだが、共通しているのは、優秀な大学しか取り上げないこと。編者が手作業で評価作業を行うため、物理的な限界から対象が有名大学に限られてしまうのだ。

もちろん、わざわざ海外まで行って大学に通おうという人の多くは、そもそもランキング外の大学は相手にしないだろうから、これで普通は用が足りている。ところが、タイやマレーシアの大学を探ろうとすると、ほとんど見つからない。そりゃそうか。

そんな時に役立つのが、Webometricsというところが発表している大学ランキングだ。このランキングの特色は、ウェブ世界における影響度を唯一の評価指標としていること。すなわち、大学のウェブサイトの充実度、大学スタッフの論文の本数や被引用回数、他のウェブサイトからの逆リンクなどからわかる影響力等だ。こうしてできたランキングがこちら

Kyodaiこの手法の良いところは、機械的にデータを集めるため、 人間の恣意が入りにくいこと、そして、世界中の大学を対象とできること。日本はもちろん、タイやマレーシアの大学も対象となる。ちなみに世界のトップは上から順にスタンフォード、MIT、UCバークリー、ハーバードとなっている。日本の大学では、東大(世界59位)、京大(同116位)、慶応大(同139位)、名古屋大(同235位)、タイの大学ではカセサート大(同516位)、チュラロンコーン大(同527位)、ソンクラーナカリン大(同672位)、AIT大(同772位)、マレーシアの大学ではサインスマレーシア大(同1125位)、マレーシア技術大(同1140位)、マルチメディア大(同1155位)、プトラマレーシア大 (同1301位)の順となっている。

大きな傾向はこのデータからわかるので、タイやマレーシアの大学選びの一助にぜひ活用していただきたいデータである。

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2007.09.14

地獄庭園

Jigokugarden仏教には六道という六つの世界があるらしい。天人が住む天道、人間が住む人間道、戦いが絶えない修羅道、牛馬の世界の畜生道、餓鬼が住む餓鬼道、そして生前に罪を犯した人が住む地獄道だ。

地獄の世界がどんなものであるかは、日本では、地獄絵図や小説「蜘蛛の糸」などでなんとなく知られているとはいえ、、一般人にとって身近なものとはいえないだろう。

ところがここタイでは、多くのお寺の壁画に地獄の様子が生生しく描かれていて、この世界には行きたくないなと思わせる。

さらにすごいのは、先日行ったパンガー県のお寺。ここにはなんと地獄の様子をこの世に再現した地獄庭園がある。地獄の入り口には閻魔大王らしき方が、罪人を裁いている。その奥では、舌を引っこ抜かれていたり、棘の木を裸で登らされたり、釜茹でにされたりする人間の数々・・・これらがリアルに等身大の人形で再現されているのだ。

このあまりに身近な「地獄」の存在を、どのように解釈すればいいのか、タイの上座部仏教のどこに位置づければいいのか、正直わからない。とりあえず今は、タイ仏教をより深く知るためのキーワードの一つとして捉えておこう。

いちおう写真も載せました。リアルなので、心臓の弱い方、グロテスクな世界が苦手な方は見ない方が良いでしょう。

地獄1 地獄2 地獄3 地獄4 地獄4-2 地獄5 地獄6 地獄7

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2007.09.13

地震だ! プーケット・パトンビーチ津波警戒レポ

Tsunamireport 夕方6時過ぎ、いつものようにカルフールで買い物を済ませ、家に戻る途中、知人からメールが入った。「インドネシアで大地震。津波に注意!」

三年前のクリスマスの惨事が頭をよぎった。とりあえず家に戻らねば。念のためビーチ通りではなく、山の手のナナイロードを通って帰った。地震のニュースを聞いて皆急いで山側に逃げようとしているのか、道はえらく混んでいる上に割り込みが激しい。

苦労して家に帰ると、日本にいる知人からも大丈夫か?とメールが届いていた。同じくパトンに住む友人からも安否確認の電話が。その友人によると、ビーチ沿いのお店は早々に店じまいして帰宅したという。

もっとも、我が家はパトンとはいってもビーチから200メートルほど離れた高台の上にあるので、まず大丈夫だ。まさか三年前と同規模の津波がそうそう来るとも思えないし、インスタントラーメンの買い置きもあるので、のんきに構えていた。ただ、津波はいつ来るんだ? その規模は? 

正確な情報を求めてテレビとインターネットを彷徨った。

タイのTV、NHKワールド、プーケットガゼット、バンコクポスト、asahi.com、mixiのタイコミュ・・・だがどれも要領を得ない。インド洋沿岸には津波の恐れがあるとか、マレーシアで津波警報が出たが解除されたとか、引き続き警戒が必要だとか言うのだが、一番欲しい情報、すなわち、プーケットには津波が来るのか、その規模と時刻は、という情報がはっきりしない。

そんな中、夜10時前になって、やっと欲しかった情報を見つけた。発信元は Pacific Tsunami Warning Center、直訳すると太平洋津波警戒センター。ここが夜9時40分に警戒レポートを出した。グリニッジ標準時で書いてあるのでわかりにくいが、プーケットには夜10時8分に第一波が到着予定であること、これまでに観測された津波で最大のものPatong_2はインドネシア・パダンの0.98mであること等が書かれていた。これを見て、まあそれほど大きな規模にはならないであろうことと、夜10時過ぎから2時間くらい海を見てれば実態がつかめることがわかった。

そうして2時間くらい時折海をチェックしていたが、いつもと変わらずビーチ通りに車が走っているのが見えたので、大事はないと判断して寝た。

結局プーケットには、大きな波は来なかったようだ。高台に避難していた人々も深夜0時頃には家やオフィスに戻ったようだ。写真は今日のお昼頃のパトンビーチ。いつもと変わらず平穏無事で、快晴!

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2007.09.12

ソンクラーナカリン大学 プーケット校 サービス産業学部 タイ学科

Psu1

今日は私が通う大学のことを書いてみよう。
ソンクラーナカリン大学は、ハジャイに本部がある、タイ南部を代表する国立大学である。日本で例えるなら九大というところか。「Prince of Songkla University」 という英語名の通り、ソンクラー親王、すなわち現国王のお父様のお名前をいただいている。日本では「プリンス・オブ・ソンクラー大学」などと呼ばれることもある。

ハジャイの他にタイ南部に4つのキャンパスがあり、そのうちの一つのプーケットキャンパスには環境・IT学部とサービス産業学部(Faculty of Service Industry)の二つの学部がある。サービス産業学部というと何をやっているのかわかりにくいが、ホスピタリティ管理、観光管理、中国ビジネス、中国研究、そしてタイ研究の5つの学科があり、私は昨6月からこのタイ研究科(Thai Studies)に所属している。キャンパスは山を切り開いたところにあり、交通の便は不便(これは公共機関が未発達であるプーケット自体の問題なのだが)だが、広く、自然豊かないい環境だ。

このサービス産業学部の特色の一つは、授業が全部英語で行われていること(インターナショナル・プログラムと呼ばれている)。英語以外の外国語も多数教えていて、外国人講師も多く、語学教育の質は日本の大学と比べても良い方だと思う。これは学部の性質上も外国語が必須だし、卒業後も外国や外国人絡みの職種につくことが想定されているからだ。

Orchidさてタイ学科だが、生徒は三年半の間に、一般教養と共に、タイの歴史、古代史、文学、言語、宗教、民俗学、経済、近代化、法律、武道、音楽など、タイに関することをとにかく網羅的に学ぶ。私は今学期は、東洋文明、哲学、タイ地理、タイ南部史、伝統と祭り、タイ語、ムエタイを受講した。 日本の大学で、日本のことをここまで網羅的に学べる学部学課はあるだろうか?

そしてこの学科の特色として特筆すべきなのは、とにかくフィールドワークが多いこと。今日は漁村見学、明日はムエタイジム、来週は美術館、と毎週のようにバスやバンを繰り出して飛び出して行く。地理の授業では泊りがけで貝塚や発電所やお寺を見に行ったし、南部史の授業では3泊4日でタイ南部を一周した。自分一人ではまず行けない場所に連れて行ってもらえて、しかも大学講師がガイドという、かなり有難い企画だ。さらに生徒たちは夏休み等を利用して、3年半の間に、アンコールワット(カンボジア)、インド、チェンマイなどに留学に行く。インド滞在は1ヶ月、チェンマイは2ヶ月だ。

さらに良いことに、これらの旅費もすべて学費に含まれている。もっとも学費は高く、タイ人でも半期で37000バーツ、外国人の私は45000バーツだった。安い大学は半期で10000バーツらしいので、際立って高い。外国人の講師(高給取り)が多いことや、少人数制であることも一因だろう。

来週に続きます。次回は講師や生徒の実態に迫ります。

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2007.09.11

水不足解消の切り札

Desal1_2 ここプーケットは、慢性的な水不足に悩まされている。家が吹き飛びそうな雨季の暴風雨を知る者にとっては、水不足だなんてにわかには信じがたいのだが、そうなのだ。

実際、プーケットの降雨量は雨季の5月-10月には月間で200mm-400mmに及ぶ。乾季の11月―4月は少ないが、それでも年間では2200mmにもなる。この数字は、東京よりも約50%多い数字だ。それでも水不足なのだ。

水不足の理由は二つある。まず、人口が多すぎること。車で走れば南北に1時間半ほどのこの島に、約40万人が住み、年間4百万人の観光客が訪れる。もう一つの理由は、プーケットは島であるため、上流の他県から水を運んでくれる川がないのだ。島内にはため池はたくさんあるが、これだけでは需要をまかないきれない。

だから、とくに乾季になると、断水もしょっちゅうある。このため、プーケットのマンションやホテルでは大きな貯水タンクを備え、一般の家庭でも大きなポリバケツに常に水を張り、自衛している。井戸を掘る人も多い。それでも全然足りず、リゾートホテルなどは高い金を払って外部から水を買っている。

こんな時代が長く続いたが、昨一月に、水不足解消の切り札がプーケットのカロン地区に登場した。海水淡水化プラント、要するに、海水をくみ上げて真水にしてしまう施設だ。

Desal2具体的には、逆浸透という方法を用いるらしい。これは海水を 逆浸透膜という一種のろ過膜に通し、海水の塩分を濃縮して捨てて淡水を漉し出す方式で、これにより、平均3.5%ほどあった海水の塩分を、0.01% ほどにできるのだそうだ。くみ上げた海水の約4割が真水となり、残りの6割ほどはまた海に戻されるのだが、生態系への影響を考慮し、岸辺から800メートル離れたところ、16メートルの深さに戻される。

この施設では一日あたり1万2000トンの真水を生産でき、今年の乾季こそは水不足に悩む心配がなくなると期待されているのだが、さて。

[※Source]
http://www.thaisnews.com/news_detail.php?newsid=203356
http://www.phuketgazette.net/news/index.asp?Id=5452

[※参考]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E6%B0%B4%E6%B7%A1%E6%B0%B4%E5%8C%96

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2007.09.10

ラマダンまであと2日

Mosque昨晩はイスラム教徒の友人Tに連れられて、プーケット島東部のシャロン湾近くのムスリムセンターへ行ってきた。五人の中学生がクルアーン(コーラン)30章を読み終えたことを祝う式典があるから、きっと面白いよ、と誘ってくれたのだ。

クルアーン30章というのがどれだけの量なのか想像もつかないが、大人に大いに褒められていたので、大きな一区切りなのだろう。なおクルアーンは原典にあたることが重要とされているため、タイ語の完訳というのはない。あるのはアラビア語原文の解説書だけだ。この子たちも一生懸命読んだんだろうな。

Muslimcenter広場の脇にはちょっとした食堂が並び、カレーそば、フレンチトースト、うずら卵の揚げ物など、簡単な食べ物が売られていた。この激甘のフレンチトーストを食べるのは、子供たちではなくて、大人たち。しかも男の。酒を飲まない彼らは甘いものが大好きで、砂糖をたっぷりまぶしたフレンチトーストをつまみに、これがまた激甘の紅茶を飲みながら談笑する。子供たちは走り回って遊んでいた。服装は、男性は白装束が多く、たまに黒もいる。女性はきらびやかなムスリムドレスもいたが、ジーンズもいて、いろいろだ。

夜8時、「アッラーアクバル~」とモスクからの大音量が流れると、礼拝堂に皆が集まってくる。礼拝堂の前には専用の水道がずらりと並んでおり、彼らはまず、口をすすぎ、手を荒い、顔、足もきれいに洗ってから入室する。三回ずつだそうだ。男性と女性は別室でお祈りする。子供は女性と一緒だ。

皆が礼拝堂の奥へ奥へと詰めていく。これは前に行けば行くほど評価が高いからだそうだ。一番奥にはリーダーが一人いて、皆、彼の動きに合わせてお祈りを行う。西の方向(メッカーの方向)を向き、何か神をたたえる言葉を言いながら、立って、ひざまずき、額を深く地面につけ、また立って、と4セット繰り返していた。所要時間は約15-20分くらいか。イスラム教徒は一日5回のお祈りをすべきとされているが、現実には現代人には5回は難しく、朝と夜のみ行う人も多いようだ。朝は2セット、夜は4セット。

友人Tは生理だったので参加できなかった。生理のときは不浄とされ、礼拝堂に入れないのだそうだ。まあ今日は私のガイドということで、お祈りは心の中のみで行うことに。

Mc2 お祈りが済むと、集会が始まった。グラウンドに椅子を運んできて、夜風に吹かれながら行う青空集会は、なかなか心地がいい。座席は男性席と女性席が完全に分けられていて、壇上に向かって、右が男性席、左が女性席。夫婦のみ隣り合って座ることができ、この場合は、二人で女性席に並んで座る。

四名の有識者が壇上に並び、この日は断食月ラマダンまであと数日ということで、代わる代わるラマダンの意義を訴えていた。彼らの話の内容は専門的すぎてよくわからなかったのだが、友人Tが一般的なことをいろいろと教えてくれた。

・ラマダンとは9番目の月のことで、マホメットが神の啓示を得た月である。
・普段よりもお祈りの時間も長くなるし、読むクルアーンの量も多くなる。
・ラマダンでは断食をする。太陽が出ている間は食べものはもちろん、水も飲めない。
もちろんガムも噛めない。でも日が沈んでからは飲み食いOK。
・性行為もダメ。でも日没後はOK。
・断食そのものが第一目的ではなく、神の教えを再確認することが目的。
・生理の女性は断食をしなくてよいが、事前に埋め合わせをする。
・学校は早く終わる。
・罪人も罪を悔い贖罪すれば、罪を許される。
・普段は生活パターンがばらばらの家族でも、この時期に限っては皆一緒に夕食を囲むことになり(皆同じ時間におなかをすかせている)、ラマダンの月は家族団らんの月でもある。

普通に日常生活をしながら、日中一切水を口にしないのは大変なことだろう。「ガムも噛めないから口臭が気になるわ。もし臭ったらごめんね~」だそうだ。9月12日夜からの一ヶ月、彼女から目が離せない。

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2007.09.09

ベニガオザル

Benigao_2

タイ・パンガー県でみかけたサル。顔の赤さ、ブタのような丸まった短い尻尾からベニガオザルと思われる。子供はそれほど赤くないのに、大人ザルの顔は真っ赤だ。

Benigao2

[参考]京大霊長研HP
http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/topics/bunrui.html

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ヒトはサルから

Monkey パンガーのお寺で野生サルと遭遇。「なんか顔似てない?」と隣にいたイスラム教徒のTをからかったところ、「私はアダムとイブの子孫だから、サルとは違うの」と怒られてしまった。

そうか、イスラム教もアダムとイブだった。ダーウィン進化論を受け入れにくいのはキリスト教徒だけじゃなくて、イスラム教徒もそうなんだ。

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2007.09.08

月を喰らう悪役

Rafuプーケットから1時間30分ほど北に走ったところにあるパンガーのお寺で、強烈なキャラを見つけた。

月を食べているこの真っ黒な方のお名前は、ラフーという。神様だ。だが、ヒール役だ。

詳しい友人が説明してくれたところによると、この神はもともとはインド神話ラーマーヤナから来ており、タイでもとてもポピュラーな神だという。

それによると、太陽、月、ラフーは神様の三兄弟だった。彼らは共に人間社会に来たがって、喧嘩をし、勝った太陽と月が来ることになった。太陽は昼を照らし、月は夜を照らすことに役割が決まった。負けたラフーは役割がなく、たまに地球に来ては月を食って悪さをするが、すぐに追っ払われる。これがつまり月食だ。写真は月を食べているところ。

かつて神々と悪魔の間で戦いがあったとき、神々は戦闘のために不死身の水を作り飲んだ。ラフーはこの不死身の水を盗み飲んだ。目的外のラフーの行動に怒った神々は、ラフーの首を切って落としたが、彼はすでに不死身になっていたので、首だけで生きている。

と、完全なヒール役なのだが、なんとも憎めないキャラで、文字通り主役を食ってしまっている。好きだなあ、こういうの。

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※9/15追記 その後いろいろ調べていて、この神は日本では「ラーフ」と呼ばれる、インド神話の乳海攪拌の物語に登場する悪魔と一緒であることがわかりました。私の友人のストーリーと、乳海攪拌のストーリーは若干異なるのですが、それはタイ式に変容しているからなのか、私の友人が省略しすぎたのか、その辺は不明です。

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2007.09.06

中国、日本、朝鮮を漢字一字で表わすと?

Eah1_2タイ学科では東洋文明が必修科目になっている。全16回で、インド文明、中華文明、日本文明を3人の講師がリレー講義する。

日本文明を教えるのは、日本語の授業も持っているG先生。受講生の多くは大学一年生で、日本についての予備知識はほとんど持っていない。彼らを対象に、全5回で日本のことをどこまで教えられるだろう? 講師の力量が問われる、と思って楽しみにしていたら、第一回の授業は映画「ラストサムライ」を見る、だった。うーん、まあそれもありかな。

同時に2つの資料が配られた。一つは日本の歴史(鎌倉まで)の概説書。アマテラス―神武・・・の天皇の系譜や、形式的な元首(天皇)と実質的な元首(貴族、武家)の二層構造、御家人制度、武士道、などを網羅したなかなか優れた資料だった。自国の歴史を海外からの視点で見るのは面白い。

二つ目の資料は、なんとマンガだった。「中国、日本、朝鮮を漢字一字で表わすと?」というテーマのもので、中国は「一」、日本は「和」、朝鮮は「忠」とある。これが面白かったので紹介しよう。

著者は、三国の文化の違いをまず地理的条件が必然的にもたらす歴史の違いに求める。すなわち、中国は大陸の大国、日本は島国、朝鮮は半島であったが、大陸には群雄が割拠し、また異民族の侵略にもさらされるため、大陸国中国は、大国が武力をもって国内を統一することでしか平和を実現できなかった。このため統「一」が最優先事項となった。また戦争が絶えない過酷な歴史だったため、支配者が代ろうと自分には無関係、自分と家族が何より大切とする個人主義が芽生えた。Eah2

他方、島国においては海が自然の障壁となり異民族の流入は防止できるが、国内での戦争は逃げ場がないため凄惨なものとなりがちだ。このため、島国日本ではなるべく他者間で摩擦がおきないように、紛争や摩擦を未然に予防する文化、すなわち「和」の文化が発達した。これには社交辞令、本音と建前の分離、他者不干渉、等も含まれる。また武力による支配者のさらに上に、絶対的権威をもつ調停者=天皇を維持してきた。

さらに半島国は、戦略的に重要な土地となることが多く、常に異民族による侵略の危険にさらされる。このため朝鮮民族は、常に臨戦態勢にあり、武力に頼るところが大きい。また自然と異民族のるつぼとなるため、血を守らなければ民族が消滅してしまう。そこで民族意識が強烈で、他国文化の順応性は低く、また同胞意識が強い。民族を守るための正義の思想・行動(「忠」)が評価され、民族の全体善に背く思想・行動は大きな非難を受ける。


さらに著者は、地理的条件→歴史的事実において、中国とフランス、日本とイギリス、朝鮮とバルカン半島に類似性が見られるとして論を進める。このような見方はヨーロッパの歴史を知る人にとっては、アジア史を知る一助になるだろう。

著者の論法は確かに強引で、厳密に社会科学として論拠を求めていくと論証しきれない部分も多いのだが、実際各国の歴史と一側面をよく言い表してもいて、なるほどと感心した。入門書としてはよいと思った。

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ショートブレイク

View1勉強に疲れたのでカリムビーチのカフェで一休み。

プーケットでは少し走ればこういうビーチ沿いの癒しカフェはすぐ見つかる。17時頃に行ったら他に客もいなくて、のんびりといい時間を過ごせた。



View2

View3


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2007.09.04

タイのお盆

Duensip 大学の民俗学の講義で習ったのだが、ナコンシータマラートなどのタイ南部では、サート・ドゥアン・シップ、すなわち10月祭と呼ばれる、現世に戻ってくる先祖を供養する行事がある。タイ旧暦の10月13-16日頃に行われる。タイ旧暦の10月15日は、日本の旧暦では8月15日に相当する。

私のタイ語はまだタイ語の文献が読めるほどではないので、英語の文献によっているのだが、これはインド伝来の仏教行事で、先祖様が一年のうちこの時期だけ現世に戻るので、これをお迎えし、送り返すのだそうだ。まさに日本のお盆と同じである。

具体的には、この期間、一族、地域をあげて五種類のお菓子をつくる(写真)。それぞれボート、洋服、お金、サバというゲーム、装飾品に対応しており、ボートはあの世とこの世との川を渡るため、洋服とお金はこの世で使うため・・・という意味を持つのだそうだ。またこの期間には、食べ物を詰めて塔のようなものをつくりお寺にもって行く。これは徳を積むためだ。



Khanomla

Khanombah

さて、日本とお盆とこのタイ南部の「お盆」には、何か関連があるのだろうか?  少なくても、以下の類似性がある。

(1)ともにインド伝来の行事で、仏教と関係があるといわれている
(2)ともに現世に戻ってくるご先祖様をお迎えする
(3)ともに満月の日(旧暦15日)の前後に行われる。時期も1ヶ月しか違わない。※1
※1 伝統的な日本のお盆の日程。明治以降は多くの地域で新暦7月15日又は8月15日に移行した

これはもう少し調べてみる価値がありそうだ。この記事、続きます。

[参考]
http://www.tsu.ac.th/ists/news/?019&lang=en
http://www.thai-tour.com/eng/nakornsithammarat/festival.html

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2007.09.03

読書記録のつけ方

Bookdb 読んだ本の記録を残したい。 そんな大層なものではなくて、著者とタイトルと出版年と、内容のサマリーと簡単な感想を記したメモ程度のものを想定している。

学生の頃、梅棹忠夫さんの「知的生産の技術」に触発されて、「京大型カード」で読書記録を残していたことがある。「京大型カード」とは、大学ノートのような罫線が入った、やや厚手のB6サイズのカードのことである。

この方法は優れた方法だった。何よりも検索性に優れ、あいうえお順にでも並べておけば、必要なときに必要なものだけを取り出して参照することができた。つまりデータベースだ。これは最初からアウトプットに使うことを想定した読書記録法だった。

だが、結局数ヶ月でやめてしまい、今ではどこかに行ってしまった。その理由は、手書きが面倒だったこと、カードのサイズの限界から修正や加筆に限界があったこと、携帯性に欠け必要なときにカードが手元になかったこと等の、本質的な理由だった。

大学ノートなどでも試してみたが、なかなか京大型カードより優れた記録方法はなく、WEBでいろいろ調べても読書記録そのものはあっても、読書記録の方法論を書かれている人は少なく、長く悩んでいたが、ふと思いついた。「MSアクセスで作ったらどうだろう?」

もともとデータベースソフトウェアであるから、検索性はお手のものだ。モバイルPCはいつも持ち歩いているから必要なときにそこにあるし、デジタルデータであるから入力の手間も修正加筆も簡単だ。嵩張ることもない。

思い立ったが吉日、早速作ってみた。タイトル、著者名、出版年、読了日、アクセス方法(購入・レンタルの別と保管場所)、内容、感想等のフィールドを作り、ここ一ヶ月に読んだ十数冊をまとめてみたが、思った以上に使い勝手がいい。乱筆を気にせずどんどん書いていけるのがいいし、今後データが増えてきても、検索をかけて目的情報にすぐたどり着けるのが素晴らしい。

知的アウトプットが、質的量的に大幅向上する予感がして、わくわくしている今日この頃なのだ。

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2007.09.02

『サル学の現在』 立花隆 著 を読む

「アニマ」誌に1986年~1990年の間に連載された対談が1991年に単行本となり、1996年に文庫本として発売されたもの。だから約20年前の学問的成果である点には留意が必要だが、それにもかかわらず抜群に面白い。

文庫上下巻合わせて900頁もある本著には、22人の学者と立花氏の対談という形で、京大霊長類研究所を中心に、サル学、すなわち霊長類学の創設から執筆当時までの学問的成果とその手法、裏話などが盛り込まれており、この魅力的な学問の全体像を俯瞰できる内容となっている。具体的には、(1)まず固体識別・長期観察の手法で判明したニホンザルその他のサル、チンパンジーやゴリラなどの類人猿、アメリカ大陸のホエザルなどの新世界ザルなどの社会構造(群れの有無、群れの基本単位、性行動、融和行動、群れ内の順位、群れ同士のテリトリー、群れの乗っ取り、群れからの離脱行動など)が詳細に、興味深く語られる。

続いて、(2)骨や歯の化石からサルとヒトの境界点を探る人類学的なアプローチの成果が語られ、最後に(3)それぞれの種の遺伝子分析という生化学的な手法を使って、遺伝距離と分化時間(いつ種と種が分岐したか)を求めた成果が語られる。

本書の序章は、この学問の創設者の今西錦司氏との対談だ。なぜ動物「社会」学をやろうと思ったのか、今西氏のその問題意識を私的に解釈すると、ヒトの類似種であるサル、類人猿の「社会」を知れれば、高度な社会的存在であるヒトの社会のルーツを知ることができる、となる。

今西氏自身は途中から、どれだけ類人猿を知ってもヒトの起源はわからない、と結論付けて違う方に関心が向いてしまったようなのだが、本書の終章では、今西氏の弟子にしてサル学の大家の伊谷純一郎氏が、これまでのサル学を踏まえた私見として以下のようなことを述べてまとめている。

誤解を恐れずに伊谷氏の私見をまとめると、すなわち、社会構造の進化とは同性の他者を社会の一員として容認できるかという点がポイントで、平等で容認し合うのが平等原則社会、劣位者が優位者にへりくだり自己を抑制することで容認されているのが不平等原則社会といえるが、前者は少数固体の間では成立しやすいが、大型の集団になると後者が貫かれている、霊長類社会では、群れが大型化するに従って後者の不平等原則型となっていくのだが、後者一本やりではなく、条件的平等を容認することで社会融和を図っている。不平等原則の中に条件的平等が増えていくというのが社会の進化の方向だ。人間の歴史も不平等原則と平等原則の間の弁証法的展開といえる。また、ある構造から次のレベルの構造に移行する際には不安定状態が続くが、種の進化の理由もこれで説明できるのではないか。

とにかく、学問的問題意識を持って読むもよし、サルやゴリラの社会行動を面白おかしく読むもよし、霊長類を研究する学者のユニークな生態を垣間見るのもよし、知的刺激に満ちた好著だ。

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2007.09.01

ラノン温泉

Onsen_2プーケットから北に向かって車で走ること約5時間のところに、ミャンマーと国境を接する街、ラノンがある。なんとここには温泉がある。

日本でなら温泉など珍しくもなんともないが、タイには火山もないし、地震もまずないのだ。そんな場所になぜ温泉があるんだ、と不思議に思うのだが、ここの温泉は非火山性の温泉らしい。

先日、縁あってここの温泉に立ち寄ってみた。川沿いに温泉が湧いていて、湯量は豊富だ。周囲にはあまり強くはない硫黄臭が漂っている。日本同様の温泉卵も売っていた。温泉水をくみ上げて飲んでいる人もいた。Onsen2

タイ人はあまり温泉につかる習慣がないようで、川沿いを眺めても誰も露天風呂を楽しんではいない。入浴するとしても、水着を着て温泉施設(スパ)で浸かるようだ。私も、連れのタイ人達と一緒に、宿泊したホテルのスパに入ったが、タイ人は熱いお湯が苦手のようで、42度の風呂釜には誰も近づいて来なかった。

実はこのラノンという街には、もう一つ日本人受けする観光資源がある。それは旧日本軍の足跡だ。

Kikanshaこの地は戦時中、イギリス軍と日本軍との戦場になったそうで、山の中腹には日本軍が掘った塹壕などがまだ残っている。鉄道でミャンマーに物資を運ぶのに使っていたD51が、敗戦後そのままに放置されている。昔の日本人はこんなところまで来ていたのかと思 うと、感慨深いものがある。

しかしながら、まさかこんな片田舎まで日本人観光客は来ないだろうと思っていたら、朝7時、ホテルの駐車場で円になってラジオ体操をやっている東洋人集団を見かけた。まず日本人と見て間違いないだろう。すごいね。

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